吉井簡易裁判所 昭和34年(ろ)4号 判決 1959年6月11日
被告人 渡辺久之
大一四・九・二六生 製材業並石油販売業
主文
被告人は無罪
理由
本件公訴事件は次の通りである
被告人は自動車運転者なるところ昭和三十三年十二月二十四日午後七時十分頃、軽自動車佐四三三九号を運転し、浮羽郡浮羽町方面より久留米市方面に向け時速三十粁で進行中、浮羽郡吉井町塚本町五八七の五番地先路上に差蒐つた際前方道路左側約十米の地点で、段浦千年(当三十六年)が自転車に乗車して対向して来るのを認めたが、斯様な場合自動車運転者としては右段浦千年に警告を与え同人の姿勢態度等を考慮し、同人が何時進路に出て来るか判らないので同人との間隔を充分保ち減速徐行する等事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務がありたるに拘わらず、被告人は之を怠り時速二十粁に減速したのみで、同人が進路に侵入しないものと軽信し漫然進行した為同人に左斜約一米五〇に接近して来た際同人が突如自転車のハンドルを切つて進路に出て来たのを認め、直ちに急停車の措置をとつたが及ばず自動車の前車輪附近を同人の自転車の後荷台附近に接触せしめて転倒させ、因つて同人に対し治療約二週間を要する右胸部打撲傷を負わせたものである。
(証拠略)
被害者段浦千年は被告人の車のどの部分が当つたかは判らぬが段浦の自転車が道を横切り通り抜ける寸前後部荷台に被告人の車に突当てられた趣旨の証言をするのであるが、前掲実況見分調書(検第一号)によれば本件事故直後被害自転車は前輪湾曲、そのタイヤはパンクし、加害車は左後部荷台附近に擦過した跡が認められ又被告人の検証現場での説明によれば、被害者の自転車の前車輪が被告人の単車の左後方泥除附近に突当り、タイヤが少し外れていたので後で野上自転車屋に修理に持つて行つたと言うのである、右事故直後の痕跡新たな右両車の状態は被害車が加害車の後部に突込んだものであることは自ら明らかで他に認定の仕様はないのである、被告人の右説明する事実も之を裏書するものである、そうして一方被害者は只一人事故当時野上自転車店より東に定期便の大分の大型トラツク西に西鉄バスが停つていたと証言するが、之は被告人の供述及証人野上仁三郎の証言によつても否定される処であり、又同一方面のトラツクは認められながら被告人の車は衝突まで判らないなど有り得べき事ではないので、これは被害者の何かの錯覚と認める外はない、そうして被害者は事故現場附近の鹿毛酒屋で焼酎五勺を飲んだため事故当時多少酔つていた事実は被告人証人野上及被害者の供述を綜合して明白である、酒量は僅か五勺であつても一日の行商の帰途の夕刻七時を過ぎる頃のすき腹に立飲すれば酔うのは当然であつてその為め被害者の注意は散慢になつていた事も事実と認められる、さなきだに被害者はまことに善人であるが注意力が薄弱であるように証人訊問の際の問答態度から看取されるのである。
その被害者が焼酎に酔つたため一層無頓着になり夕方とは言え諸車の輻湊する浮羽郡を従貫する中枢国道を前後の見透しもせず(前を見て自転車に乗れば被告人の車はライトによつて相当遠距離で発見できる)自転車に飛乗り横切ろうとして被告人の車の後部に突掛けたのである、此精神状態が前掲トラツク、バスの存在について錯覚を生ぜしめたものと認められる。証人野上も被告人の単車と此被害者の行動を見てハラハラしていたのである、其結果自転車は(ヘ)点被害者は(ト)点に投出されたのであるが、それがどんな力の関係からであるかは判らない。
被害者の行動如何に拘わらず車の運転者は事故の発生を未然に防止すべき最善の注意を為すべきは当然であるが凡ての事故はこれによつて防止出来るものでもないし、又其要請される注意義務にも限度がある。
凡そ道路の通行は運転者歩行者を問わず凡ての通行者の注意によつて秩序が維持されている此各人の注意の存在を前提として通行者は最善の措置を構ずれば足り否之を前提とすることを厳守しなければならないのである。
一個の通行者が一般人の此程度の注意も怠つて行動するものとの前提の下に通行の輻湊する道路で諸車を運転するようなことがあれば忽ち交通の秩序は破壊されるであろう、従つて本件のような状態に於ても対向している被害者が前後の見透しもせず何時横断するか判らないとの前提で措置する義務は被告人にはないのである。
要するに本件について被告人は被害者が前方を見て進行するものとの前提の下に注意しながら進行していると被害者が自転車に乗つて突然左斜に横断したので危険を感じ急制動を掛け最善の措置をとつたが及ばず本件事故を起したのである、被害者が立つていた(ロ)点から(ニ)点の衝突個所まで十米あるが自転車を走らせながら乗車すれば寸時の間に達する此横断が寸刻の間に行われたものである事は被告人の車が衝突迄五米五〇それから停車迄二米五〇スリツプしていた(前掲実況見分調書添付交通事故発生現場見取図による)ことで認められるのである。
従つて本件事故につき被告人の注意義務に欠ぐる処はない本件は久留米より浮羽郡中央を坦々と続く原野を従断する寔に見透しのよい国路をあたかも無人の広場を行くように被害者が前方を見向もせず横断し被告人の車に突掛けた自殺的行為によつて生じたものであると認定される。
近時我国に於ける交通機関の発達は実に目覚しいものがある、之に対し道路の整備はこれに追随せず、この為め交通に相当の無理があるのが現実である。
又交通機関の発達は文明を促進し我々個人に直接多大の便益を与えて呉れるのであるが、それは或程度のスピードが要請される事は言うまでもないのである。
斯る状況の下では我々個人々々の凡て交通についての相当の注意義務が要求されるのである。
此要求される注意義務は現場に於ける諸般の状況によつて決せられ之によつて交通秩序が維持されるのであつて、そこで各人は此程度の注意義務は実行されるものとして交通上の最善の措置を構ずれば足り、又此注意義務は何人も実行するものとの前提の下に措置すべき注意義務が在るのである、何人も前方を見て通行するものであり被害者が矢庭に飛出すことはないものと考え、即ち何人も実行している注意義務は実行されるものとの前提の下に最善の措置をとつた被告人は此注意義務を尽しているのである。
本件被告人は此注意義務に違背する処は認められないのである。
以上認定の通りであつて本件一切の証拠を以てしても此認定を動かすに足るものは何もない。
依つて本件は被告事件について犯罪の証明がないから刑事訴訟法第三百三十六条後段によつて主文の通り判決する。
(裁判官 黒田実)